できなくったっていい

みなさんこんにちは、のたです!

中学生の時の成績では、(音楽も図工も苦手なのに)オール5を取らなきゃと躍起になったり
高校・大学では帰国子女と比べて英語の出来なさに悩んだり
社会人になったら上司との面談で指摘された弱みを克服しなきゃと悩んだり。

弱いところを補強しなくっちゃ!とこれまで頑張ってくることが多かったような気がします。
常に完璧を目指していました。完璧があるべき姿だと思っていたし、例え自分が好きで興味のある分野ではなくても「ダメなところ」が直せないと、自分は能力の低い人間と思っていた部分もあるかもしれません。

日本の教育は減点方式と表現されることがあります。
完璧を100として、そこから出来ていない分の点数が引かれて自分の価値が決まる。
良いところ、得意なところを褒めて伸ばすよりも、改善点を提示されてそれを直していく。
初めてこれを聞いた時「なるほど、上手いこと言う。まさに」と思いました。
(全てを日本の教育のせいにするつもりはないし、日本教育は日本教育で強いところもあるんですけどね。忍耐強さなんて特に日本教育の賜物。)

いかに総合得点を減らさないか、という世界なので、
例えばテスト期間中に潔く苦手な歴史教科は捨てる、なんてことは私には出来ませんでした。

日本の新卒採用だって、「事務系採用」と幅広く採用して、入社してから人事をやったり、営業をやったり、マーケティングをやったりとジョブローテーションがある会社がまだまだ主流ですよね(一方、海外の採用は「ジョブ型採用」と言われており、職種も職務内容もランクも決まった上で、採用するのが一般的)。「総合力」を求められ、スペシャリストよりもジェネラリストが評価される傾向がある気がします。

でも、普通に考えて1人の人間ができる範囲には限りがありますよね。

・「完全なリーダー」「すべてを把握し解決する完全無欠の経営者」と言う神話からもう卒業しようではないか。
・リーダーが己の不完全さを自覚し、長所と短所を併せ持った存在であることを認めた時、初めて自分に足りないスキルを誰かに補ってもらうことができる。
・不完全なリーダーと無能なリーダーの違いは、自分の長所と弱点を正しく把握し、適切な判断に基づき、他人の助けを借りて、自分の強みを活かし、おのれの欠点を埋め合わせられるかどうかにある。

上記はいずれもHarvard Business Review「リーダーシップの教科書」からの引用です。同書では、「分散型リーダーシップ」と言うものが提唱されており、自分一人の人生だけではなく組織を引っ張って行くリーダーでさえ、「完全なリーダー」よりも「不完全なリーダー」が求められていると、自分の弱みを自覚し他人の助けを借りることが良いと言っているのです。

どんな人にだって得意なことと苦手なことがあるものです。全部自分でやろうとしないで苦手なことは得意な人に任せれば良いのです。無理して自分が不得意なフィールドで戦って、それで自信をなくしたり、不安になったりしなくて良いのです。

「君は歴史ができないね」と言われたら
「そうだよ、でも私は数学ができる」と胸を張って答えれば良いのです。

良い意味で出来ないことを自覚して諦め、完璧を目指すことから自分を解放する、それは自分だけのためではなくひいては組織全体にとってプラスになるのです。

だから、全部できなくったっていいんです。

好きなことを自覚する

みなさんこんにちは、のたです!

日本だろうが、オーストラリアだろうが、場所は違えど、世間話や雑談をするのはどこも同じなのです。オーストラリアで働いている時の話、ある日、趣味の話になりました。

「趣味はなあに?」と聞かれたので色々答えたのですが、衝撃でした。

映画鑑賞と答えると・・・
同僚:「週に何本くらい見るの?」
私:「週にというか、月に1〜2本かな?」
同僚:「それって趣味なの?大体みんな映画は好きでそれくらい見るでしょ。好きな映画は?」
私:「うーん、絶対にあるけどパッと出てこないな」
同僚:「じゃあやっぱ趣味じゃないんだよ、他にないの?」

お菓子作りと答えると・・・
同僚:「でもまだお菓子作ってオフィス(僕たちに)持ってきてくれてないじゃない。それでは趣味とは言わないよ」

散歩と答えると・・・
同僚:「それもさ、じゃあ聞くけど、毎日するの?」
私:「いや毎日ではなくて、週末に予定がなくて時間があればする感じかな」
同僚:「良いかい?趣味っていうのは、それが好きで好きでたまらなくてそのために時間を作ってまでしたいことなんだよ。他人からみてばかみたいに見えるほど、時間もお金も費やしたり、そのことで一喜一憂したりすることなんだよ。隣の同僚を見てみなよ、先週末ラグビーの試合があったから今週はずっとブルーでしょ。(応援していたチームが負けたらしい)」

という感じで、私が趣味だと思っていたものは全て一蹴されてしまったのです。
極端だなあとは思いつつ、確かにそういう目で改めて自分の好きなものってなんだろうなと思って見ると、意外と自分でも分からないなと。そして比較的に好き、とか機会があればやろうかなくらいだったり、楽しいな好きだなと思ってもすぐに忘れたり、つきつめて楽しんでそのために時間を作ろうとすることって少なかったかもと思ったのです。特に社会人になってからは、忙しい・疲れたを理由に自分の好きなことに時間を使うのをやめていたような気がします。

また、その後意識して人と会話をしていると、「このペンが書きやすくて、形も可愛くて好きなんだ」とか「紅茶が好きで、紅茶を飲んでいる時が一日で一番幸せ」「お家を見るのが好きでネットで間取りを見たり、車でドライブしている時に面白い形の家を見かけたら後でゆっくり見に行く」「釣りが好き。釣りのために早く寝て早く起きる週末を過ごしている」というようにみんな些細なことも含めて自分の好きなもの、好きなことを自覚してそのために時間を使ったり、喜びを感じたりしているのだなと気づきました。

自分の好きなことがわかっていると、そのために時間を使って、そのためにお金を使うことも無駄だとは思わないし、そのために生きているのだ(おおげさ?)と感じられる。それがひいては日常の小さな幸せや豊かな人生に繋がるのだろうなと感じました。

好きなものは何?最近ハマっていることは何?と聞かれるのは、(何もないので)苦手だったのですが、きちんと答えられるように生きようと思いました(今年の目標です笑)。何か楽しいことないかな〜と待っているよりも、自分にとって楽しいことが何かを自覚して楽しいことをする時間を作る。(楽しいってわかったらそもそも時間を作るって表現にはならないのだろうけど)ちょっと良いな好きだなと思ったら、時間を作ってそれをする時間に浸かってみる。そうすることで自分の人生の色が1つでも2つでも増えるような気がしました。

みなさんはどうですか?自分の好きなことってパッと答えられますか?

「しなくては」の呪縛から抜ける

みなさんこんにちは、のたです!

明日早くにお出かけするから早く寝なくっちゃ!
今日中に明日の資料を作り上げなくっちゃ!
晩御飯にワイン飲みたいから、帰りに買って帰らなくっちゃ!

日常生活の色々な場面で「しなくては」がありますよね。
自分がしたいことをするための「しなくては」は自分にとってプラスのことだし、表現上「しなくては」と言っているけど、それは本当は「したい」ことなのです。(仕事上の「しなくては」は、は微妙なラインだけどね。けど、仕事をすることが自分のしたい生活をするためだったり、その先に目指しているものがあるのであれば、それはやっぱりとても(笑)広い意味で、「したい」なのだと思います)

だけど、一方でこんな「しなくては」を感じることはありませんか。

先輩らしく振舞わなくっちゃ
周りの空気に合わせなくっちゃ
あまり目立たないようにしなくっちゃ
女性らしくしなくっちゃ(もしくは男性らしくしなくっちゃ)


この「しなくては」は、本当にそうなのでしょうか。
社会からのプレッシャー、親からのプレッシャー、責任感からのプレッシャー
色々あるかもしれないけど、案外一番大きいのは自分の思い込みのプレッシャーかもしれないなと最近思うことがあります。

高校生らしくしなくっちゃ
大学生らしくしなくっちゃ
社会人になったんだから、それなりの服を着て、それなりの物を持たなくっちゃ
後輩なんだし、先輩に何か誘われたら付き合わなくっちゃ
先輩なんだし、弱いところを見せないようにしなくっちゃ
仲良い友達にだって、なんだって見せて良い訳じゃないからオンオフしっかりわけなくちゃ

私はいつも勝手に物事に対して理想像を作って、自分をそこに合わせないととコントロールしていたように、今は思います。だけど、別に誰に言われたわけでもないこと、私が勝手に空気を読みすぎて(?)、勝手にプレッシャーを感じていたのかもしれません。(外で遊んでばかりいて、もう少し女の子らしくしなさいと言われたことはあるけれど。笑)

出る杭は打たれる、ということわざがあるように、確かに日本には暗黙の了解的なルールやプレッシャーがあるけれど、必要以上に受け止めることはないのかなって思います。
「しなくては」を感じた時に、一度本当に?と自分に聞いてみて、違うのであればもう少し自分の気持ちを大事にしてみることも必要かなと。
そこから自分らしさって生まれてくるものなのかもな〜と。

社会に迷惑をかけない程度に「しなくては」の呪縛から抜け、自分の気持ちを大事にしてみましょ^^

やりたいことではなく、何が出来るのか、から考えてみる

みなさんこんにちは、のたです!

今の状況に満足していないし、変わりたいと思うけど、自分が何を本当にやりたいのか分からない。

新卒で入社した1つ目の会社にいる間はずっとそんなことを思っていました。やりたいことが分からないからどう動いて良いか分からない。ぐるぐる、ぐるぐると悩んでいました。
だけど、周りの人に話しを聞いて見ると結構同じようなことで悩んでいる人って多いんだなと思いました。だから、今日は私がオーストラリアで出会った考え方を1つお話ししたいと思います。

イギリス人の女性で、今は英語の教師をしている人の話です。
彼女は、シンガポールに生まれ、南アフリカポルトガル、イギリスと引越しを繰り返し、北欧(どこの国か忘れました)の大学に進学。大学で初めて親元を離れ生活を始めるものの、言葉が通じない国で生計を立てるためのアルバイトを探すのに一苦労。色々なことにチャレンジするものの上手くいきません。
そこで彼女は、「私に出来ることって何だろう?何が今いる環境で強みになるだろう?」と考えました。出てきた答えは、英語を教えること。イギリス人の両親のもとに生まれたわけですから、当然第一言語は英語。そして、北欧は英語圏ではないけれど、英語学習者が多い国。
そうして始めた英語を教えるアルバイトをする中で、人に物事を教えることが好きだということ、人の前に立って話をすることが好きだということに気付いたそうで、英語教師を生涯の仕事にすることを決めたそうです。そしてそこから10年以上経った今でも、楽しんで続けています。

この話を聞いて、なるほど、今まで自分は自分目線で何がやりたいかばかり考えていたけれど、社会に対して自分が持っている能力や価値観を使って何が出来るか・どう貢献できるのかという目線で考えて見るのも良いなと感じました。
私は、人間どんな人も1人では生きていけない、この社会で1人の大人として生きる以上、何かしらの形で社会に貢献するべき、そして仕事をするというのがそのうちの1つなのだ、という考えがあったため、彼女の話を聞いて発見した新たな目線は、私に非常にフィットしました。
この時の気づきが、結果的に私がやりたいことを見つける助けになったし、悩みながらもオーストラリアから日本に帰国する決断をした理由につながっています。

新卒での就活や経験者でキャリアチェンジを考える中で、もし変わりたいけど自分が何をやりたいか分からない、ことで悩んでいる方がいれば、一度「社会にとって自分は何が出来るのか」という目線で考えてみてはいかがでしょうか。

幸せな人生とは

みなさんこんにちは、のたです!

不幸な人生と幸せな人生、どちらが良いかと問われたら
ほぼ間違いなく全ての人が幸せな人生と回答するのではないでしょうか。

良い大学を出て、良い会社に入って、結婚して、子供を持つ。
世の中で言われる「勝ち組」「成功者」の「良い人生」/「幸せな人生」。

でも、あなたにとって幸せな人生ってどんな人生かと問われたら?
日曜日にガーデニングをすること、安くて美味しいご飯を食べること、健康でいられること、田舎で星空を眺めること、人を喜ばせること?
答える人の数ほど、答えがあると思います。本来。
それなのに、なんとなくいわゆる上述の「良い人生」と離れた生き方をしているとプレッシャーを感じることがありますよね。そしていつの間にか、「良い人生」と自分の人生を比較して、自分の人生が不幸な人生、もしくは幸せではない人生と感じてしまう。

自分の大学より「良い」大学に行っている人に引け目を感じる。
自分より稼ぎが良い、もしくは「一流」企業に勤めている人と比べて劣等感を感じる。
まだ結婚していないの?子供いないの?と言われ、プレッシャーを感じる。

でも、「良い」大学も「一流」企業も、結婚するのが幸せへの道説も「誰か」の価値観でしかないのです。
本当に大事なのは、大学で何を学び、得たか。働くことを通じて社会にどんな貢献をし、社会的責任を全うするか。結婚をしたいと思わないならしなくても良いし、一生一緒に添い遂げたいと思う人がいないのであれば、無理にするのものでもない。

島国で、同一民族国家の日本にいるとどうしても、社会の価値観が確立されすぎており、そこと自分の価値観とのギャップで苦しんだり、もしくは自分の価値観を持つことすら忘れてしまい社会の価値観で物事を考えてしまうクセがついてしまう。

私が去年生活をしていたオーストラリアは移民大国と言われており、多国籍・多文化社会の国です。それぞれ育ってきた環境が全く違うから、当然考え方も何が「良い」のかの感じ方も全く違います。
知識としては知っているし、当たり前なのかもしれないけど、その環境で生活し、体感することで改めて一人一人が持つ物差しは全く違うのだと、そしてそれで良いのだということを強く感じたのです。

あまりに日本では「良い人生」の概念が狭すぎて、それしかイメージ出来なかったり、
特にファーストキャリアの会社では私の考え方と上司/同僚の考え方が違いすぎて、自分が変わっているのかなと感じたり、時には上司から「間違い」とか「成功しないと思う」などと言われ、自信をなくしたり、不安になることがありました。
しかし、オーストラリアで、日本ではあまり見聞きすることがない生き方や考え方をする人達との会話を通じ、色々な生き方があるのだと感じました。
私はこれまで見てきたロールモデルの型が少なすぎて、「幸せな人生」のためにその型に自分を押し込めて、型に合わせなきゃと思い込んでいました。そしてそれで苦しんでいました。だけど、実際は色々なロールモデルを見てこなかっただけだったのです。様々なロールモデルを見て、出会うことで、気持ちがとても楽になったし、どういう風に生きていきたいのか考えやすくなりました。

人によって何が幸せか違う。だからどんな生き方をするのかも違う。
何が自分の人生にとって幸せで、どんな生き方をしたいのか、自分なりの人生の答えを出すには、たくさんのモデルを見ること、そしてそれらを組み合わせながら又は自分が持つ新たな価値観を加えながら「自分の幸せな人生」を作っていくのです。将来に悩んだり、何がしたいのか分からないと悩む人をよく聞くし、私自身がそうだったけれど、一つの打開策としては、自分に似た人、似てない人選ばずに、色んな人に出会い、話を聞くことなんじゃないかと思っています。(私は気づくきっかけがオーストラリアに行ったことでしたが、日本や日本人の中にだって色々な人がいます、似てる/似てないは考え方や生き方で、という意味です)

おこがましいけれど、私の生き方/考え方も一つの例として誰かの役に立てれば幸いかな、と思ったのが、このブログを始めようと思った一つの理由でもあります。
なので、こういう人・考え方もあるんだーくらいにに読んで頂けると嬉しいです:))

これまでの人生

みなさんこんにちは、のたです。

さて、前回の記事で自分なりの人生の意味を見つけ出すまでに考えたこと・経験したことを書いいきますと言ったのですが、それらを語る上で私がこれまでどんな人生を歩んできたのかが絡んでくることになるかなと思うので、まずはかるーくあらーく自己紹介をしておこうと思います。

●大阪で生まれる
 -その後、親の仕事の都合で引越しを繰り返すものの一切覚えておらず、
   記憶があるのは神奈川に住み始めた頃から
●私立幼稚園、市立小学校、市立中学校に通う
   -小学生の時に父親の「自分の子供に野球をやらせたい」という夢を叶えるべく
     近所の少年野球チームに入り、土日は野球に明け暮れる
 -中学の時に英語に感動し、英語に力を入れている高校を目指すことに
   (え?人が生きていく中で自然に習得する言語を勉強して分かるようになるんだ!
  違う文化で違う場所で生まれた言語なのに、同じような表現があるんだ!
  (my phone is dead=携帯が死んだ、とかね)と、とにかく大興奮だった)
 -念願叶い、第一志望の高校へ進学。と同時に、両親と妹は大阪へ(とにかく転勤が多かった)
 -兄との2人生活が始まるも、兄が途中で出ていき、1人暮らしになる。一家バラバラ事件笑
   離れてみて初めて、家族の大切さに気付かされる
 -入学した高校は学年の5/6が帰国子女(みんな帰国した時期やバックグランドは様々だけどね)
  これまで日本でしか生きてきていない私としては、みんなの考え方とか海外での経験を
  聞いて衝撃が大きかったな。尊敬できる友達ができたのも初めて
●これまた帰国子女が多い大学に進学
●無事大学卒業後、某大手日系メーカーに入社し、人事部に配属される
 -高校・大学と7年間帰国子女に囲まれて過ごすうちに、自身の考え方も変わっていたため
   久しぶりの「日本のルール(厳しい上下関係や阿吽の呼吸、気合いで乗り切れなど)」に
   逆カルチャーショック(て言うのかな?)を受ける
 -思うところあり、新卒入社の会社を退職する
●ワーキングホリデー制度を使ってオーストラリアのシドニー
 -人事部で働いていた経験を頼りに、転職コンサルタントとして働く
 -予想外にジョブオファーを受け、悩むも帰国を決意
●再就職活動後、人事コンサルタントとして働く(今ここ)

ちなみにここまで読んで筆者は女性だと思いましたか?男性だと思いましたか?
正解は女性です。思った通りだった人も、そうでなかった人も、どうしてそう思ったのか考えてみると結構面白い発見がありますよね。(私の文章の書き方?経験?)
全く余談ですが、昨今ジェンダーに関する様々なムーブメントがあり世の中の関心が高まっていますよね。私も人事に携わる人間として、平等・中立でありたいと思うもののアンコンシャスバイアス(自身では気づかない思い込みや偏見)があることを痛感させられる出来事があったので気になって聞いてみました。

余談を挟みましたが、次の記事以降、色々と各人生のパートでの出来事を書いていきたいと思います。

一度きりの人生、あなたは何をして生きるのか

みなさんこんにちは、のたです!

あなたは何のために生きていますか?
と聞かれて、一言あるいは一文で◯◯です、と答えられる人はどれくらいいるのでしょうか?

私はこの質問に答えられるようになるまで、とても時間がかかりました。

未だに絶大な人気を誇り、おそらく誰もが一度は見たことがあるであろう国民的アニメ「アンパンマン」の主題歌:アンパンマンマーチで、以下のような歌詞があります。

なんのために生まれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ

なにが君のしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないままおわる
そんなのはいやだ

小さい子向けの割に、なかなか深い歌詞ですよね。
社会人になってすぐの頃の私は、短いけど本質的なこれらの問いに答えることができませんでした。

小学生くらいの時に「人間誰もがいつかは死ぬ。死んだら何も無くなるのに、何のために生きるのだろう。結局最後は同じ(=死ぬ)なのであれば、頑張る意味とか辛い思いをする意味って何なのか。」なんてことをしょっちゅう考えていた時期がありました。(暗いよね。変わった子だったんです。笑)
その時に、「だからこそ自分が生きる意味を考えよう」と思って考え続けていれば、後々悩むことはなかったのかもしれませんが、残念ながら当時の私は、疑問に思うところで止まってしまい、結局そのまま自分なりの答えを導き出すところまで至らずでした。

そのままなんとなく大人になり、なんとなく大学を卒業し、なんとなく社会人になった私は、社会人一年目がまあ大変で、何のために生きているのか分からなくなり、非常に苦しみ、悩みました。
そこから改めて人生の意味や働く意味を考えるようになり、会社の先輩に「何のためにこの会社で働いているんですか」と話を聞いたり、本屋さんんで「生きる意味」「働く理由」に関わる本を買い漁りました。(会社の先輩からしたら、なんてめんどくさい後輩だったでしょう。笑)

でも聞いたこと、読んだことのどれもがしっくり着ませんでした。それは、他人に「自分の人生の答え」を求めていたからです。散々悩んで悩んだ末に、自分の人生の意味は自分で定義するものだと気付いたのです。学校のテストでは、問題は用意されていてそれに答えることが一般的だし、部活なり会社なり組織に入ると自分の役割が与えられます。あまりにそのシステムに慣れすぎて、自分の人生のミッションは何なんだと誰かに言われるのを待っていたのかもしれません。自分の人生なのにあまりに受け身で無責任だったとやっと気付いたのです。そのことに気付いてから、改めて自分自身と向き合い、見つめることでやっと1つの答えにたどり着いたのです。

今の私の答えは「自分らしく、自分を好きになって、幸せに生きる人を増やす」です。

この答えは、今後の経験で変わってくるかもしれませんが、今はこの答えに満足して、そのために生きようと思えています。
なんだここまで引っ張って、ありきたりな綺麗事じゃないかという感じもしますが、個人的には自分なりの答えを考えて定義すること、そしてその答えに至るまでのプロセスが結構大事だったりするんじゃないかなと思っています。
この後の記事で、私自身がその答えにたどり着くまでに考えたこと・経験したことをしばらく書いていきたいと思います。あくまで私の思考のプロセス・経験ですが、少しでもこれを読んで下さった方がその方の答えに辿り着くきっかけになれば幸いです。