不平等を理解する

みなさんこんにちは、のたです!

物事を継続するって難しいことですね。
毎日が忙しいと書きたい記事を思いついても、携帯にメモして時がすぎ・・・
1月は記事が書けないまま終わってしまった!
でもプレッシャーになりすぎずに書くことをルールにしているので良しとしましょう。
(プレッシャーをかけちゃうとおそらくやめちゃうので笑)

今まで基本的にはオーストラリアで感じたこと、体験したことをベースに記事を書いてきましたが、つい先日オーストラリアから帰国して1年たってしまったので(早い!涙)、今日は最近の生活で感じたことを書いてみようと思います。

それは不平等さを正しく理解するということ。
よく世の中には不公平だ、不平等だ、理不尽だということがありますね。
最近で言えばアメリカでは黒人差別の問題がありましたし、日本ではオリンピック組織委員会会長が女性を蔑視するような発言をしたことで物議を醸しています。
人種や性別等、自分でコントロールできないことに対して差別を受ける、理不尽な扱いを受けるということは、確かにあってはならないことだと思います。

私も最近仕事で不平等だ!と思うことがあったのですが、、、
自己紹介記事で書いた通り、私は現在人事コンサルタントとして働いています。
基本的にコンサルタントの仕事はプロジェクトベースなので、スタッフ層であれば、1つのプロジェクトが終わったら次のプロジェクトにアサインされて1つずつ仕事をこなしていきます。
会社として大型プロジェクトを受注すれば、リソースが必要になるので、自分の専門外のプロジェクトにアサインされることもあります。
あまり詳しくは書けませんが、私が勤めている会社も、現在1つ大きなプロジェクトを抱えており、私も3ヶ月限定ということで、人事とは関係ないプロジェクトに関与しています。
しかし、3ヶ月が終わる頃に1ヶ月延長、もう1ヶ月延長と伸びに伸びてなかなか抜け出せません。あれ?元々の説明では、専門と違うプロジェクトなので、不公平のないよう、みんなでローテーションします、誰もが1回はこのプロジェクトにアサインされるように交代でやります、という話じゃなかったっけ。周りを見渡してみると、同じプロジェクトに入っているのは新卒・中途関係なく入社1年未満の人ばかり・・・。
不公平だと思いました。でも、これって自分でコントロールできないことなのでしょうか。アサインする側の気持ちを考えてみると、人事関連のプロジェクトはすでに腕が磨かれている人事コンサル経験が豊富な人材がやったほうが効率がよく、サービスの価値も高められる。そんな人材を専門外のプロジェクトに配置して、逆に人事コンサル経験の浅い若手を人事系のプロジェクトにアサインしても全体のバランスが悪い。そう思うだろうなと思ったのです。
そして、今起こっていることはこれまでの自分の経験や選択が招いている結果であり、当たり前のことだ。不公平だと文句を言うくらいなら、今のうちに人事関連の勉強をするなど今できることをして次のチャンスに備えようと、自分次第で変えられる(た)ことだと思ったのです。

上述したことは、読んでみると当たり前のことかもしれません。すでに人間ができている人、競争社会で戦っている人からしたら、何を寝ぼけたことを言っているのだと思われるかもしれません。
ただ、ここで私が言いたかったのは、世の中には不平等はあって当たり前だと言うことです。
冒頭でお話しした人種差別や男女差別などの是正すべき差別や個人の力で覆しようがなく“社会”の努力によって正すべき不平等さを「不健全な不平等」と呼ぶならば、“個人”の行動次第で打開できる不平等さについては、「健全な不平等」と呼べるでしょう。
この「健全な不平等」に対しても同じように「人はみな平等」という言葉を振りかざし、“理不尽に”平等さを訴え、不平不満を言っている場面もあるのではないかと思います。私が最初に不平等だ!と思ってしまったのは、まさにこれに当てはまると思います。

ただ、日常生活を送っているとどうしても人を羨んだり、不公平だと感じてしまうこともあります。私の場合、英語圏で生まれ育っていたらどれほど世界が違っただろうとか、冷え性じゃない体質の身体だったらとか、女性特有の症状で毎月体調が悪くなると、ケラケラしている男性を見てなんて不平等なんだ!と思ったりもします。
しかし、生まれた地域・生まれ育った家柄などの境遇や男女の体のつくりの違い、個人個人の体質などは社会の努力では変えられません。社会がいくら努力をしても、どの地域に生まれてくるかも、どの親の元に生まれてくるかも、男性が子供を生むようになったりもしません。
こういった不平等さについても、文句を言っても仕方がないし、他人に理解を強要しても仕方ないのです。そういった前提の不平等さがあることを受け入れ、自分がコントロールできることにフォーカスする。そっちの方がよほど建設的でヘルシーではないでしょうか。

また、不平等さが社会を支えていることもあります。
これは人様の記事ですが、紹介したいと思います。
詳細はぜひ記事を読んでほしいと思いますが、コロナによってリモートで授業を受けることとなった学生らが、大学に設備費の返還を求めたことに対する大学側の回答が紹介されています。その回答の中で「不公平」について考えることをお願いしたい。という言葉があるように、社会には必要な不公平もあるのです。

note.com


今は世界的にコロナの流行が留まるところを知らず、未だに厳しい生活を強いられている人も多くいると思います。日本でも2度目の緊急事態宣言が発令され、多い日には1日の感染者数が2,000人を超える日もありました。これに対し、政府が様々な支援策を行なっていますが、賛否両論です。人によって置かれている環境が違うので当然といえば当然のこととは思いますが、ニュースを見ていると少し自分本位で発信されている意見が多いように感じます。
そもそも社会というのは他者同士が集まった共同体です。ありとあらゆる場面で誰もが助け合っているのです。あえて作り出した「不平等さ」が自分にとってプラスのこともあれば、マイナスのこともあるでしょう。断面的かつ短絡的な自分自身に対する有益・不益のみに左右されず、今一度この不平等さを理解した上で、物事を評価することが必要なのではないかと思います。

色々な切り口で世の中の不平等さについて書きましたが、あまりまとまりのない記事になってしまいましたが、言いたかったことは、不平等なこと・理不尽なことにただただ文句を言ったり、嘆いたりするのではなく、その不平等さの本質を見極め、自身が置かれている環境下で最大限できることに集中することが大事だということでした。

家族のあり方②

みなさんこんにちは、のたです!

やっと2020年、仕事が納まりました!
ということで、戻ってまいりました。
いやいや、これだけ時間あいて続編かい!という感じですが、
前回の記事(こちら↓)を書いてから、プラスで思うことがあったので続編決行!

 

lovethelifeyoulivenota.hatenablog.com

 

私は海外TVドラマが大好きでよく見るのですが、最近は医療ドラマのGrey's Anatomyにハマっています。医療をテーマにしつつ、色々なバックグラウンドをもつ人の人生の様々な出来事を描いていく話で、感動したり共感したり、ついつい次が気になり気づいたら何時間も経っているということも・・・笑 (最近はあまり見れていなくて悲しいです😖)

そのドラマの中では、離婚、再婚、養子、体外受精代理出産同性婚など保守的な日本ではまだまだ話題にあがることが少ないテーマの内容も極普通に(それらが各エピソードの主テーマですらない時もある)触れられています。
まあ、ドラマだし医療モノということもあり、ある程度の誇張もあるのでしょうが、アメリカ人に聞いたところ、都市部であればさほど現実との乖離はないようです。
中でも私が一番考えさせられたのは、同性夫婦(女性同士なので婦婦?)が子供を望み、精子バンクから精子提供を受け子供を作ろうとするものの上手くいかず、結局片方が親友の男性友達と一夜を共にし(合意の上ではなく、ケンカして一時的に別れていた間に!!)、子供を授かり3人で家族として子育てをするという話です。
文字で書くと数行の話ですが、コトが起きるにはそれなりに紆余曲折があるので、当然それぞれが気持ちに折り合いをつけるのには、時間を要しているという設定ではありますが、最終的には、新たな命がいかに尊いか、生まれてきた子供が愛されていることが大事、ということで落ち着きます。構図としては、精子提供者(だけど親友でもある)と夫婦(婦婦)という形なので、線引きには苦戦しますが、少しずつ彼らの中でルーティンやルールを確立していき、それぞれがお互いを思い合い、みんな家族という意識でいます。
またしても「なるほど、家族のあり方というか、作り方や定義もそれぞれなのだな」と考えさせられたのでした。法律上の家族とは違いますが、気持ちの上で繋がっており、例えば書類上は家族でもお互いを憎み合っていたり、全く会わない家族よりも家族らしいのかな〜と感じました。国家や大きな組織を統制する上では、法律やルールが必要不可欠な一方で、一人一人を見ていくと大事なのはやはり何を思い、どう考え、どう行動するのかなのかなと思いました。

家族のあり方という話からは少し外れてしまいますが・・・組織人事コンサルタントとして働いていると、人をテーマに仕事をしているはずなのに、仕組み作りやルール、基準、それらがいかに論理的で筋が通っているかに気を取られてしまいがちです。改めて人事の仕事は、ルールや仕組みの延長には人の思いや気持ちや人生があることを忘れずに仕事をしなくてはなと思うのでした。

大切だと思える人が自分の人生にいるってだけで、幸せなことですよね!
今年も残り1日ですが、大切な人に感謝の気持ちを忘れずに^^
みなさま、よいお年をお迎えください!

家族のあり方

みなさんこんにちは、のたです!

10月は仕事に追われ、休日出勤が多かったためご無沙汰してしまいました。
が、辞めたわけではないですよ。笑

さて、今日は家族のあり方について感じたことを書いてみようと思います。

1.そもそも家族の範囲って?
みなさん家族って言葉を聞くと、誰を思い浮かべますか?
自分の親やきょうだい、結婚されている方は配偶者や自分の子供でしょうか。

私はまだ結婚しておらず“自分が作り上げた”家族はないため、両親ときょうだいが家族という認識でした。そして、祖父母、おばおじ、いとこなど輪を広げた繋がりは親族でした。

英語で話しをしていると?オーストラリア人は?はたまた私が関わった人がたまたま?
理由はわかりませんが、オーストラリアにいる間に家族の話になると、もっと広い意味で家族という言葉を使っている人が多いなあと感じました。会ったこともないような遠い親族は親戚、という認識のようですが、いとこやおばおじも姪も甥も「家族」なのです。

オーストラリアにいとこが住んでいたので、1ヶ月程お世話になっていた時期がありましたが、その時にいとこ(と言ってもずっとオーストラリアで住んでおりほぼ会う機会もない、中身はオーストラリア人)が私を「家族」と呼び、「家族」として扱かってくれ、そうなのか、私にとっては彼らは親戚という認識だったけど、彼らにとって私は家族なのか、となんだかとても不思議な気持ちになりました。
私は父親が転勤族で親族とは離れ生活してきたため、家族=両親ときょうだい、これが一括り、という認識が強かったのですが、自分の家族の捉え方が狭かったことに気付かされたのです。せっかく同じ家系に生まれてきたのだから、その繋がりを大切にする、ってなんだか良いなーと思いました。

2.家族での助け合い
オーストラリアはご存知の通り、移民大国です。オーストラリアにいる間に出会った人の中で、親も自分もオーストラリア育ち、という人に一体何人会っただろうか、というレベルです。
日本国内でも、生活圏が変わるのはなかなか大変なものですから、海外へ引っ越しとなるとそれは大変です。慣れない土地、慣れない文化、慣れない人。そんな時、頼れる人、助け合える人って貴重ですよね。家族で近くに住んで、家族ぐるみで子育てをしたり、週末にはみんなで集まってご飯を一緒に食べたり、ビーチにみんなで行ってぼーっと海を眺めたり、家族で散歩に出かけたり。移民が多いオーストラリアだからこそ、より一層家族を大切にし、家族で助け合っている人が多いように感じました。
なるほどな〜と納得。日本は核家族世帯が増えており、家族の繋がりが希薄だと言われます。首都圏に行けばいくほどその傾向は強くなる。私の家族は仲が良い方だと言われることが多いですが、それでもオーストラリアでの様子を見ていると家族みんなで過ごす時間は短いのではないかなと思います。やはり、最後の最後何かあった時に頼れるのも、助けてあげたいと思うのも家族です(そう思えること自体が幸せなことなのだと思います)、家族との時間や助け合いの精神をもっと大事にしようと思いました。

3.家族でシェアされる文化/生活習慣=普通?

「普通そんなことしないよね」「普通は食事の時はみんな揃ってから食べるだろう」
よく、普通、という言葉を聞きますね。当然、社会一般常識や学問、科学として世の中に広く知れ渡っている事実については、共通認識として共有されているので、普通◯◯だろう、と表現しても違和感はないでしょう。
でも、生活習慣に関わること、マナー、食文化など、主に自身が育った家庭環境に左右される「普通」については、本当に本当に大きく違うのです。そしてそれは、誰かが普通と違うわけではなくて、上述の通り、育ってきた環境の違いでしかないのです。
私の両親はお酒はあまり飲まず、アウトドアもせず、どちらかというとのんびりとしたタイプで、けどテーブルマナーについてはうるさく、1日3食健康な生活を!のタイプです。
オーストラリアにいる間はディナーに呼ばれ別の家族と関わる機会が多かったのですが、夕食はろうそく派、夫婦一緒に料理派、ワインやビールを必ず添える飲んべえタイプ、はたまた冷凍もので済ませる楽チンタイプなど色々です。家族ルールもしかり(例えば子供の叱り方:言うこと聞かないなら誕生日会やらないよとか実現しないようなことは言わないとか褒め方:自分で水をつげたの偉いねなどどんなに些細なことでも子供が自分で考えて行動したことは褒めるなど)。
人と違うことって面白いですよね。こうして最小単位の社会(=家族)での過ごし方が個性やその人にとっての「普通」の形成に関わるんだなあとしみじみ思ったのでした。

家族のあり方って本当に色々です。上記はあくまで私が関わった家族達のことしか書いていないので、逆に家族だけどそれぞれが独立してて全く関わらない、それが「普通」なんだという場合もあると思います。この記事を読んで、なるほど、じゃあ自分の家族の◯◯は独自ルールかもなあと思った方もいるかもしれません。家族はこうあるべき、と言うことではなく、家族のあり方ってそれぞれなんだと思うと普段の生活からも色々と気づきがあって楽しめませんか?

私はもっともっといろんな人の「普通」を聞いてみたいです。笑

資格社会

みなさんこんにちは、のたです!

世の中には様々な資格がありますね。
日本では、一級建築士やキャリアコンサルタントのような国家資格からチョコレートソムリエ資格やスムージースペシャリストなんていう本業には関係なくても趣味の極みとして取得できるような資格など幅広く多様な資格が存在し、ユーキャンなんかが資格取得支援/学習サービスを展開していたりして、一時期資格取得ブームなんてありましたね。

一方で、資格がないとできない仕事は少ないように感じます。人の命に関わる医者や国の法律に関係し、人の人生を左右させる場面に関わる弁護士なんかは当然、その職に就くために資格が要求されますが、飲食店やお花屋さんでバイトをするにに資格が必要でしょうか?
そんなことないですよね、特に飲食店は学生がバイトするところをよく見かけますし、私自身が学生だったときも飲食店でバイトをしている友人は多くいました。

オーストラリアでは状況が違います。バイトだとしてもアルコールを提供する飲食店で働くにはRSA(Responsible Service of Alcohol)と呼ばれるライセンスが必要になりますし、お花屋さんで働くにもTAFEと呼ばれる一種の専門学校の修了資格が必要になります(私の場合は、コネ採用でかつブーケ作りには関わらない雑用ポジションだったのでセーフでした)。コーヒショップでバリスタとして働くにも同様です。一番びっくりしたのは、釣りをするのにもライセンスが必要だということです。漁師じゃあるまいし、趣味として釣りをするのにもライセンスが必要なの?と驚きでした。
どれも日本では、未経験で何の知識がなくてもタウンワークをみて電話して面接に通れば、働ける仕事だったり、思い立ったらすぐに始められるものです。

この違いはなんで生まれるのでしょうか。
おそらく理由は1つではないと思います。社会問題や文化的背景が絡んでくるものもあるでしょう。(例えば、アルコールが起因となる暴動が起きたため、アルコールを提供する際はお客さんがまだ意識がしっかりしておりさらにアルコールを摂取しても問題ないと判断できる人材を配置すべき、などの世論や社会情勢が広がったなど)
そして、そのうちの1つには何を持って人が人を信用するのか、の違いにあるのではないかと思います。日本では、ポテンシャル重視で人柄がよければOK、この人は信用できる、と判断されることが多いですが、オーストラリアではそれだけでは不十分で、その道に進む覚悟と経験はあるのか、それを見た上で信用できるかを判断しているのかなと思います。(時間とお金をかけて資格を取得するという行為を通じて覚悟を示し、特定の分野について相応の知識があることを証明することになる)
では、なぜその差が生まれるの?と深堀りしていくと今度は歴史的背景や地理的背景が関係していくのではないかと思いますが、ここではそこまで触れるのは一旦やめておきます。

鶏と卵、どちらが先かという議論はありますが、こうして世の中や人々の思考の特性が、社会のシステムに組み込まれているというのは非常に面白いですね。

 

 

お花に囲まれて幸せ。の価値観

みなさんこんにちは、のたです!

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 こちらの過去記事で、ざっくりこれまで歩んできた人生をお話ししましたが、オーストラリアに行った時は、それまでの日本の仕事をやめ、無職の状態でした。
それなりにきちんと貯金をしていったつもりでも、日本より物価の高いオーストラリアで無職の状態で暮らし始めると貯金残高は減るばかり(シェアハウスに住んでも、1週間の家賃が平均で300ドルもするんですよ!!)。不安になった私は、バイトを探すことにし、運よく人づてに紹介してもらったお花屋さんで仕事をゲットすることができました。

そこのお花屋さんは、個人経営のお店で、オーナーは結婚していて2人のまだ小さい子供がいるお母さんです。普通の家を改装し、1階をお花屋さんに、2階の2部屋をシェアハウスとして貸し出ししているような、こぢんまりとしたお店でした。

お花屋さんの1日は、その日のお花を市場で仕入れることから始まるので、実はパン屋さん並みに早くに始まります。仕入れたお花を綺麗にトリムして、前日に洗った花びんに種類ごとに移し、店頭に並べる。お客さんがくれば、オーダーを受けて、ブーケを作り、、、時にはウェディングのオーダーも受けて、ウェディング用のブーケやコサージュ、会場の飾り用のお花も用意してウェディング会場にお届けしたりすることもあるんですよ(私も1回だけ経験しました。とっても綺麗で素敵です)。お客さんが来ない時でも、決められた時間にはお店に並んでいるお花のお水を変えたり、元気がなくなった枝葉を落としたり。そして1日の終わりには、また翌日新しく仕入れるお花用に花びんを整理して洗う。意外と忙しいんですよね。
オーストラリアは自然を大切にする国ですし、Special occasionにはお花を贈り合う文化があるようなので、日本よりもお花は売れるのでしょうが、それでもオーナーに聞くと、売上から次のお花の仕入れ代や人件費など経費を引くと、利益はほとんどゼロだそうです。

私は不思議でした。まだ子供が小さいし、忙しくて(市場に行く日は朝4時スタート)、稼ぎも薄いのに、なぜお花屋さんをやるのだろう。
オーナーは笑って言っていました。「子供の世話で疲れ果てたり、嫌なことがあって落ち込んだり、眠くて朝起きるのが辛い時があっても、ここにきてお花に囲まれていると幸せな気持ちになるのよ。お花の生命力を感じて元気をもらえるの」
とっても素敵だなと思いました。多くの人が仕事選びをする時には、給与やタイトル、福利厚生を気にしたり、ある程度安定した暮らしがしたいと願いそのために仕事をするものですが、彼女の場合は自分が何を好きかを自覚し、その素晴らしさを毎日きちんと感じ、労働=お金のため/生活のためという概念を完全に越えていたのです。
もしも例えば企業の社長になるのが難しかったとしても、お金が欲しかったら、カフェやレストランでアルバイトするのでも良いのです。その方が彼女にとったらずっとお金になるんですから。でも、彼女にとって大事なものはそういうことではないのです。

私はお金に貪欲になることが悪いとは言っていません。また、お金に貪欲でなく、意地汚くないから良いと言っているわけでもありません。いわゆる世の中の一般的な価値観に惑わされず、自分の価値観を持ち、それを自覚し、それに従い生きている姿が、凛としていて素敵だなと思ったのです。

日本では、人と違うことが悪いこととみなされる風潮があり、少し「ズレる」と変な人、変わっている人などというレッテルを貼られます。そして人と違うことを思ったり感じたりすると、そう言ったレッテルを貼られるのが怖くて、自分の素直な意見が言えなかったり。
でも、それぞれ持っている価値観が違うだけなのです。その違いこそが個性で、その人をその人らしく輝かせるものなのです。

もともと私はお花に無頓着でしたが、彼女に出会い、お花屋さんで働き始めてから、なるべくお花を生活に取り入れるようにしています。そしてそのお花を見るたびにこのお花屋さんやオーナーのこと、自分に正直に生きている人の美しさや価値観は人それぞれであることを思い出すのです。

 

写真は働いていたお花屋さんの写真😌

 

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緑のちから

みなさんこんにちは、のたです!

前回の記事

 

lovethelifeyoulivenota.hatenablog.com

 

で祖父が亡くなった話をしました。
当時私はオーストラリアにいたので、最期を看取ってあげることも
お葬式に出ることもできませんでした。
それどころか、友人と旅行に行っていたため、母親があえて私に知らせるのを
1週間程遅らせ、祖父の死を知ったのは少したってからでした。

会いにいけなかったことやお通夜もお葬式も全部終わった後に知らされた事実と
お世話になった人が亡くなるその瞬間に楽しく旅行をしていたことにひどく罪悪感を感じましたし、なんとも言えない気持ちになったのを覚えています。

私にとって身内の人が亡くなるという経験は初めてでした。
父サイドの祖父で、元々年に何度も会うほどではなかったですが、これまでの思い出が思い出されたり、もう会えないのだと思うとこみ上げてくる気持ちがありました。癌で闘病生活は長かったので、覚悟はしていましたが、実際亡くなってしまうと喪失感があり、全く何もなかったかのようにすぐに仕事をして、勉強をして、という気持ちになれませんでした。

そんな時、そばにいた友人がこういってくれたのです。
「外に出て、少し歩いて空気を吸って、緑を見て癒されておいでよ。気持ちが落ち着くよ」
落ち込んでいる時に日本でそんなこと言われたことがないので、少しびっくりしつつも言われた通り、公園にいき、緑をみて鳥をみて、ボーーーーッと時間を過ごすうちに心は落ち着きました。

私は友達が落ち込んでいる時に何かしてあげたいと思うけれど、不器用で、声の掛け方はうまくありません。だから、逆に自分が落ち込んだ時も人に話しても、困るだろうなと思うから話すことも出来ないか、話しながらも相手が困るだろうなと思ってしまいます。
だからこの時びっくりしたのです。私が何があったか友人に話した時、気まずそうにするのでもなく、沈黙になるのでもなく、緑をみてこい、と言ったのです。
そういう発想って、ビル街/コンクリートジャングルの日本で生きているとまずないだろうなあと思います。普段から自然と共に、自然を大切にしながら生きているオーストラリアならではの発想なのだろうと。日本にいて、朝から晩までオフィスで仕事をし、土日も綺麗なレストランで友達とランチやディナーを楽しむような生活をしていると忘れてしまうけれど、自然って偉大なんだなと感じたのです。
冬の早朝のはりつめた空気だったり、春のぽかぽかした陽気な日中、夏の夕方や秋の夜。通年通して美しい夕日。それぞれの季節や一日の中で好きな時間が、そういえばあったなあと思い出しました。どんなに文明やテクノロジーが発展しても、やはり自然は偉大なのです。
今日の記事は学びというよりも、回想みたいになってしまいましたが、忙しい生活を送っても、自然の美しさに気づけて、大事にできる人生を送りたいなと思いました。

命のバトンタッチ

みなさんこんにちは、のたです!

つい数ヶ月前、甥っ子が1歳の誕生日を迎えました。
私がオーストラリアに行っている間に生まれた子なので、帰国後初めて会った時にはすでに1歳近かったのですが、そこからの短い期間ですら成長が感じられます。赤ちゃんの成長の早さには驚かされますね。

実は、この甥っ子が生まれた1ヶ月程後に祖父がガンで亡くなっています。
偶然かもしれないけれど、私にはなんとなくこのタイミングが意味があるように思えたのです。まるで、次の世代にバトンが受け渡されたことを確認でき、安心して旅立ったような。ああ、こうして世代交代をしていくのだなと。

私自身はまだ結婚もしていないし、子供もいないけれど、最近ある部分では親の体力の衰えを感じることもあるし、姪っ子や甥っ子と一緒にいる時は彼女たちに楽しいことや危険なこと、我慢しなくてはいけないこと等を教える機会がでてきて、自身の子供時代を振り返り、懐かしみながら、こうやって受け継いで行くのだなあと感じました。
また、20代30代は働き盛りと言われており、ちょうどその年齢層の中間にさしあたり、身の回りの人だけではなくて、日本や世界を支えて行く世代になったんだとなあ(書くと大げさだけど、本当に労働力なんて一人一人の積み上げですからね!この世の中が今の速度で回るのは、一人一人の頑張りがあるから。総力結集!)とババくさいかもしれませんが、そんなこと考え、現代社会に生きる一人の人間としての責任を感じたのでした。

The 100-Year Life/Lynda Gratton&Andrew Scott著という本に以下のような言葉があります。
If each generation is born as smart as the previous one and inherits their stock of knowledge, then by exploring and combining different aspects of that knowledges and creating new insights, the world progresses technologically.

長い歴史の中で一人の人間が一生の中でできることには限りがあるし、どんな人でも最後に待っているのは死だけれど、世代世代でこれまでの知や想いをつないでいくのだなあしみじみ思うのでした。一族や血のつながりと言ったバトンタッチもあるけれど、人類としての大きいスコープでもこうして脈々と受け継がれていくのです。こうして我々が生きる今の世の中が作られているのです。

さあ、あなたは次の世代にどんなバトンを渡しますか?